【「日本製」普及心願成就:小樽龍宮神社本殿にて:令和6年6月20日】

【「日本製」普及心願成就玉串奉奠:小樽龍宮神社本殿にて:令和6年6月20日】
●2024年6月20日、小樽市街に昨夜から夜明けまで降り続いた雨も午前中にあがり、
土方歳三の慰霊祭が始まる午後一時にはすっかり晴れ上がり、
榎本武揚像の前につくられた祭壇の周りを白いもんしろ蝶が舞っていました。
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【土方歳三の慰霊祭祭文】
この度、榎本武揚像の前で土方歳三の慰霊祭を執り行うことができることは、
どさん子としてこの小樽の地に生まれ育った「縁」そのものに他なりません。
明治維新以降、開明開国派が薩摩・長洲藩のように喧伝されているが、
徳川幕府は明治維新の14年前の1854年3月31日に
「日米和親条約」を締結していました。
その後、安政5年6月19日(1858年7月29日)、大老井伊直弼は
「日米修好通商条約」を神奈川沖に碇泊していたポーハタン号で調印していました。
その批准書交換は、徳川幕府の外国奉行新見正興豊前守を正使として、
総勢77名の使節団の派遣を決定、米国の軍艦「ポーハタン号」に乗船して
一路ワシントンに向かって出発しました。
明治維新以降、「咸臨丸」が正式な使節団のように報道されているが、
実際、咸臨丸は正式な外交使節団のために「米・味噌・醤油・草履」等を運ぶ
たんなる「随伴船」であり、同乗船者は積荷を降ろして、
サンフランシスコから日本に戻ってます。
このように開明開国派は徳川幕府であり、
尊王攘夷を謳い外国船打ち払えと長州藩は、
1863年と1864年に、英国・フランス・オランダ・米国と戦火を交えてます。
また明治維新以降、徳川幕府を支持する「佐幕派」は、朝敵・賊軍扱いされているが、
1864年8月20日に勃発した「禁門の変」では、
長州藩が皇室に向かって銃弾を発砲した痕が、
現在も「蛤御門」に弾痕が数多く確認できることで、
我が国の歴史上皇室へ向けて銃弾を発砲した長州藩が真の「朝敵」なのです。
このように歴史は歪められ、明治維新以降「勝てば官軍、敗ければ賊軍」などと
テロリストを擁護する文言の世界が東ヨーロッパ・中近東でも繰り広げられてます。
本日、『土方歳三の慰霊祭』と引続き執り行う『「日本製」普及』の心願成就は、
「勝てば官軍、敗ければ賊軍」などの卑しい文言の破棄と
奈良時代以降の悠久な歴史「神仏混淆」を復活させる分水嶺と
認識していただければ幸いです。
この榎本武揚像の前の「オンコ松」を植樹していただいた麻生太郎先生は、
明治維新の元勲大久保利通内務卿(実質的な首相)の玄孫であり、
尚且、カトリック教徒ですので、土方歳三並びに榎本武揚など佐幕派の名誉回復
並びに神仏判然令(分離令)で混迷した日本の伝統を
「神仏混淆」時代に戻すことの起点になると確信し企画したのは
平成20(2008)年5月だったのです。
当時、戸井田徹衆議院議員と連携していたことと、
小樽の先輩でもある一鐵巌氏の協力を得て、
2008年8月9日に龍宮神社の参拝と植樹、
そして「麻生太郎先生に日本を託そう」との趣旨で
『日本の底力と地方ルネッサンス』をテーマに
小樽グランドホテルで講演をしていただきました。
「土方歳三の慰霊祭」と「日本製」を普及する心願成就の祈祷は、
全国から百八十九名の方々からの賛同を得て執り行うことができました。
1869年2月10日、
我が国の歴史上初めて選挙で榎本武揚総裁を選出した蝦夷島政府は、
土方歳三を陸軍奉行並に選出し、
箱館市中取締役・裁判局頭取も兼務させていました。
榎本武揚総裁は、土方歳三が松前から蝦夷地平定の戦い最後の部隊を連れて
五稜郭に凱旋した1868年12月15日に、箱館駐在の各国領事等数百人を招待して
「蝦夷地平定祝賀会」を開催していたことで、
両氏の信頼関係は端から見ていても永遠不滅のもので、龍宮神社の例大祭が、
土方歳三が五稜郭の戦いで戦死された命日の6月20日に行われていることは
日本人の美徳として微笑ましい限りです。
最期まで日本の伝統文化を護る戦いに殉じた土方歳三には
「たとい身は 蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん」との詩が相応しい。
小樽龍宮神社にて
令和六年六月二〇日
「日本製」普及会代表
水間政憲
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2024年6月22日
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水間政憲ジャーナリスト・近現代史研究家




